はじめに
近年、発達障害への理解が広まる中で、「境界知能」という言葉を耳にする機会が増えてきました。しかし、境界知能は発達障害とは異なる概念であり、正しい理解が必要です。
境界知能とは、知的機能が平均より低いものの、知的障害の診断基準には該当しない状態を指します。日本では人口の約14%、つまり7人に1人程度がこの範囲に該当すると推定されており、決して珍しいものではありません。
しかし、境界知能の方々は公的支援の対象外となることが多く、「グレーゾーン」として様々な困難を抱えながらも適切なサポートを受けられないケースが少なくありません。特に大人になってから社会生活や仕事の場面で困難に直面し、初めて自身の特性に気づく方も多くいらっしゃいます。
本記事では、境界知能の定義や特徴、特に大人の方が仕事で直面しやすい課題について詳しく解説し、適切な支援や対処法についてもご紹介します。

境界知能とは何か
境界知能の定義
境界知能は、医学的には「境界線知能」や「境界線級知的機能」とも呼ばれ、知能指数(IQ)がおおむね70〜84の範囲にある状態を指します。これは平均的な知能指数(IQ100)よりは低いものの、知的障害の診断基準(IQ70未満)には該当しない範囲です。
世界保健機関(WHO)の国際疾病分類第10版(ICD-10)では「R41.83 境界線知能」として分類されており、診断コードとしても認識されています。
知的障害との違い
知的障害の診断には、以下の3つの要素が必要とされています。
- 知的機能の制約(IQ70未満)
- 適応行動の制約(日常生活における社会的適応の困難)
- 発達期(18歳未満)における発症
境界知能の場合、IQは70〜84の範囲にあるため、知的障害の診断基準である「IQ70未満」には該当しません。そのため、療育手帳などの公的支援の対象外となることがほとんどです。
ただし、IQの数値だけでなく、実生活における困難の程度も重要です。同じIQであっても、環境や支援の有無によって日常生活の質は大きく異なります。
発達障害との関係
境界知能と発達障害(自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症など)は異なる概念ですが、併存することもあります。
発達障害は特定の領域における発達の偏りが特徴であり、全般的な知的機能とは別の概念です。IQが平均以上であっても発達障害の診断を受けることがありますし、逆に境界知能の範囲にありながら発達障害の特性も持つ方もいらっしゃいます。
境界知能の大人に見られる特徴
境界知能の特徴は個人差が大きく、一概に言えるものではありませんが、多くの方に共通して見られる傾向があります。
認知面での特徴
学習や理解のペースがゆっくりしている傾向があります。新しい情報を理解し、記憶するのに時間がかかることがあり、複数の情報を同時に処理することや、抽象的な概念を理解することに困難を感じることがあります。
言葉による説明だけでは理解しにくく、具体例や視覚的な情報があるとわかりやすいと感じる方も多くいらっしゃいます。計画を立てたり、優先順位をつけたりすることに苦手意識を持つこともあります。
コミュニケーション面での特徴
会話の文脈や行間を読み取ることが苦手で、言葉を額面通りに受け取りやすい傾向があります。比喩や皮肉、冗談が理解しにくいこともあり、自分の考えや気持ちを言葉で表現することに困難を感じることがあります。
相手の表情や雰囲気から感情を読み取ることが苦手で、場の空気を読むことに課題を感じる方もいらっしゃいます。
日常生活での特徴
複雑な手続きや書類の記入に時間がかかったり、難しく感じたりすることがあります。お金の管理や計算に苦手意識を持つこともあり、時間の見積もりが難しく、遅刻しやすかったり、締め切りに間に合わないことがあります。
生活リズムが不規則になりやすく、体調管理が難しいと感じる方もいらっしゃいます。
対人関係での特徴
人間関係のルールや暗黙の了解を理解することに困難を感じることがあります。相手の意図を誤解しやすく、トラブルになることもあり、集団の中で孤立しやすい傾向も見られます。
信頼できる人との関係は良好に保てる一方で、新しい環境での人間関係構築に時間がかかることがあります。
仕事における困りごと
境界知能の方が仕事の場面で直面しやすい課題について、具体的に見ていきましょう。
業務理解と遂行の困難
口頭での指示だけでは理解が難しく、何度も聞き返してしまうことがあります。複数の業務を同時に進めることや、急な予定変更への対応に苦労することもあります。
マニュアルや手順書を読んで理解することに時間がかかり、抽象的な指示や曖昧な表現では何をすればよいのか分からないこともあります。優先順位をつけて仕事を進めることが難しく、締め切りの管理に課題を感じることもあります。
作業スピードとミスの問題
作業のスピードが周囲と比べて遅く、「仕事が遅い」と評価されることがあります。確認作業に時間がかかり、ケアレスミスを繰り返してしまうこともあります。
慣れない作業や新しい業務では特に時間がかかり、効率化のアイデアを出すことが難しいと感じることもあります。
コミュニケーション上の課題
報告・連絡・相談のタイミングがつかめず、重要な情報を伝え忘れることがあります。会議での発言内容を理解することが難しく、自分の意見を的確に伝えられないこともあります。
電話対応で相手の話を理解しメモを取ることに困難を感じたり、メールやビジネス文書の作成に時間がかかることもあります。上司や同僚の指摘の意図を理解できず、同じミスを繰り返してしまうこともあります。
職場での人間関係
同僚とのコミュニケーションがうまくいかず、孤立してしまうことがあります。職場の暗黙のルールや慣習を理解することが難しく、「空気が読めない」と思われることもあります。
ハラスメントやいじめの対象になりやすく、自分の権利を主張することが苦手で、不当な扱いを受けても我慢してしまうこともあります。
キャリア形成の困難
適性に合った仕事を見つけることが難しく、転職を繰り返してしまうこともあります。昇進・昇格の機会が得られにくく、長期的なキャリアプランを描くことに困難を感じることもあります。
面接で自分の強みをアピールすることが苦手で、就職活動そのものにハードルを感じる方もいらっしゃいます。
境界知能の方が向いている仕事の特徴
境界知能だからといって、仕事ができないわけではありません。適切な環境と支援があれば、多くの方が自分の能力を発揮できます。
適職の条件
ルーティンワークが中心で、手順が明確な仕事は取り組みやすい傾向があります。視覚的に理解しやすい業務内容で、マルチタスクが少ない仕事も向いています。
一つの作業に集中できる環境があり、丁寧さや正確さが求められる仕事では強みを発揮できることがあります。人とのコミュニケーションが限定的で、身体を動かす作業が含まれる仕事も適していることがあります。
具体的な職種例
製造業や工場のライン作業では、決まった手順での作業が中心となり、視覚的に理解しやすい点が適しています。清掃業務は手順が明確で、一人で集中して取り組める特徴があります。
倉庫作業やピッキング業務は身体を動かしながら、比較的単純な作業を繰り返す仕事です。農業や園芸関連の仕事は自然のペースで働くことができ、成果が目に見えやすい特徴があります。
データ入力などの事務作業は、正確性が求められる単純作業が中心です。調理補助や配膳業務は手順が決まっており、視覚的にわかりやすい仕事です。
職場環境の重要性
どのような仕事であっても、以下のような職場環境が重要です。
指示が具体的で明確に示される環境、わからないことを質問しやすい雰囲気、失敗を責めずに改善を支援してくれる文化、個人のペースを尊重してくれる職場、視覚的な支援ツールやマニュアルが整備されている環境が理想的です。
職場でできる支援と配慮
境界知能の方が職場で能力を発揮するためには、適切な支援と配慮が必要です。
コミュニケーション面での配慮
指示は口頭だけでなく、書面やメモでも伝えることが効果的です。一度に複数の指示を出すのではなく、一つずつ順を追って説明することが大切です。
抽象的な表現を避け、具体的で明確な言葉を使い、重要なポイントは繰り返し伝えて理解を確認することも重要です。図や写真、動画などを使った視覚的な説明を取り入れることも効果的です。
業務面での工夫
マニュアルやチェックリストを作成し、視覚的にわかりやすくすることが役立ちます。業務の優先順位を明確に示し、締め切りを可視化することも大切です。
作業手順を細かく分解し、ステップごとに確認する仕組みを作ることや、定期的な振り返りの時間を設けて、困っていることを相談できる機会を作ることも効果的です。
十分な作業時間を確保し、無理なスケジュールを組まないことも重要です。
環境面での調整
集中できる静かな作業スペースを用意したり、マルチタスクを減らし、一つの作業に集中できる環境を整えることが有効です。
パソコンやタブレットなどのICT機器を活用した支援ツールの導入や、タイマーやアラームを使った時間管理の支援、メモやホワイトボードなどの視覚的なツールの活用も効果的です。
人間関係への配慮
理解のある同僚や上司をサポート役として配置することや、定期的な面談を実施し、困りごとを早期に把握することが大切です。
職場全体で多様性への理解を深める研修を実施したり、孤立を防ぐためのコミュニケーション機会を意図的に作ることも重要です。
本人ができる対処法と工夫
境界知能の特性を理解し、自分なりの対処法を見つけることで、仕事や生活の質を向上させることができます。
自己理解を深める
まず、自分の得意なことと苦手なことを把握することが大切です。どのような場面で困難を感じやすいのか、どのような方法だと理解しやすいのかを知ることで、適切な対処法を選択できます。
困ったことやうまくいったことを日記に記録し、パターンを見つけることも有効です。信頼できる人に自分の特性について相談し、客観的な意見をもらうことも役立ちます。
具体的な工夫
メモやチェックリストを積極的に活用し、記憶に頼らない仕組みを作ることが重要です。スマートフォンのリマインダー機能やアラームを使って、予定や締め切りを管理することも効果的です。
タスクを小さく分解し、一つずつ確実に終わらせていく方法も有効です。わからないことはすぐに質問し、曖昧なまま進めないことが大切です。自分なりのルーティンを作り、生活リズムを整えることも重要です。
スキルアップの方法
視覚的な教材や動画を活用した学習が効果的です。同じ内容を繰り返し練習し、体で覚えることも役立ちます。
一度に多くのことを学ぼうとせず、一つずつ確実に習得していく姿勢が大切です。得意な分野を伸ばし、強みを活かせる場を見つけることも重要です。
ストレス管理
自分に合ったストレス解消法を見つけることが大切です。適度な運動や趣味の時間を確保し、リフレッシュすることが重要です。
睡眠時間を十分に確保し、規則正しい生活を心がけることや、困ったときに相談できる人を持つことも大切です。完璧を求めすぎず、できることを一つずつ積み重ねる姿勢が重要です。
社会的支援とリソース
境界知能の方が利用できる支援制度やリソースをご紹介します。
相談窓口
各自治体の障害者就労支援センターでは、就労に関する相談やサポートを受けることができます。ハローワークの専門窓口では、障害や困難を抱える方の就職支援を行っています。
地域の発達障害者支援センターでは、発達に関する相談や情報提供を受けられます。各都道府県の精神保健福祉センターでも、心理的な相談や支援情報の提供を受けることができます。
就労支援サービス
就労移行支援事業所では、一般企業への就職を目指す方に、職業訓練や就職活動のサポートを提供しています。就労継続支援(A型・B型)では、一般企業での就労が難しい方に、働く場と支援を提供しています。
障害者雇用促進法に基づく支援制度もあり、条件を満たせば利用できる場合があります。
医療機関での相談
心療内科や精神科では、仕事や生活での困りごとについて相談し、必要に応じて診断や治療を受けることができます。
臨床心理士や公認心理師によるカウンセリングでは、ストレス管理や対処法について専門的なアドバイスを受けられます。必要に応じて、心理検査(知能検査など)を受けることも可能です。
民間のサポート
発達障害や学習の困難さに関する支援を行うNPO法人や民間団体があります。オンラインでの相談や情報交換ができるコミュニティも存在します。
就労支援に特化した民間サービスもあり、より細やかなサポートを受けられる場合があります。
家族や周囲の方へのアドバイス
境界知能の方を支える家族や同僚、上司の方々にできることをご紹介します。
理解と受容
境界知能は本人の努力不足ではなく、生まれ持った特性であることを理解することが大切です。できないことを責めるのではなく、できることに目を向けて評価することが重要です。
周囲と比較するのではなく、本人のペースや成長を尊重する姿勢が必要です。
具体的なサポート
説明は具体的にわかりやすく、必要に応じて何度でも繰り返すことが大切です。視覚的な資料や実例を使って理解を助けることが効果的です。
失敗を責めるのではなく、一緒に原因を考え、改善策を見つけることが重要です。できたことはしっかり褒め、自己肯定感を育むことも大切です。
コミュニケーションのコツ
言葉の裏や行間を読むことを期待せず、直接的で明確な表現を使うことが大切です。一度に多くの情報を伝えず、重要なポイントを絞って伝えることが効果的です。
話を最後まで聞き、理解を確認しながらコミュニケーションを取ることが重要です。
長期的な視点
すぐに結果を求めるのではなく、長い目で見守る姿勢が大切です。小さな成功体験を積み重ね、自信をつけていけるようサポートすることが重要です。
本人の希望や意思を尊重し、押しつけにならないよう注意することも必要です。

よくある誤解と正しい理解
境界知能について、誤解されやすいポイントを整理します。
誤解1:努力不足や甘え
境界知能は生まれつきの特性であり、本人の努力不足や甘えではありません。見た目では分からないため誤解されやすいですが、実際には様々な困難を抱えています。
誤解2:すべてができない
境界知能の方でも、得意な分野や環境によっては十分に能力を発揮できます。苦手な部分だけに注目するのではなく、できることや強みに目を向けることが大切です。
誤解3:発達障害と同じ
境界知能と発達障害は異なる概念です。併存することもありますが、それぞれ異なる特性と支援が必要です。
誤解4:支援は不要
知的障害の診断基準には該当しなくても、実生活で困難を抱えている方は多くいます。適切な支援や配慮があれば、生活の質が大きく向上する可能性があります。
アイシークリニック池袋院からのメッセージ
境界知能の方々は、公的支援の狭間に置かれることが多く、適切なサポートを受けにくい現状があります。しかし、特性を理解し、適切な環境と支援があれば、多くの方が自分らしく活躍することができます。
仕事や日常生活で困難を感じている方は、一人で抱え込まず、医療機関や支援機関に相談することをお勧めします。自分の特性を理解し、適切な対処法を見つけることで、生活の質を向上させることができます。
また、周囲の方々には、多様性を尊重し、それぞれの個性や特性を理解しようとする姿勢をお願いしたいと思います。少しの配慮や工夫で、誰もが働きやすく、生きやすい社会を作ることができます。
まとめ
境界知能は、IQ70〜84の範囲にあり、知的障害の診断基準には該当しないものの、様々な困難を抱えやすい状態です。日本では人口の約14%が該当すると推定されており、決して珍しいものではありません。
大人の境界知能の方は、仕事の場面で業務理解や遂行、コミュニケーション、人間関係などで困難を感じることがあります。しかし、適切な職場環境と支援があれば、多くの方が能力を発揮できます。
ルーティンワークが中心で手順が明確な仕事、視覚的に理解しやすい業務、集中して取り組める環境などが適していることが多く、製造業、清掃業務、倉庫作業、データ入力などの職種が向いている場合があります。
職場では、具体的で明確な指示、視覚的な支援ツール、十分な作業時間の確保、理解ある人間関係などの配慮が効果的です。本人も、メモやチェックリストの活用、タスクの分解、自己理解を深めることなどで対処できます。
相談窓口としては、障害者就労支援センター、ハローワーク、発達障害者支援センター、医療機関などがあり、就労支援サービスや民間のサポートも利用できます。
境界知能は努力不足ではなく生まれつきの特性であり、適切な理解と支援があれば、誰もが自分らしく生きることができます。困りごとを感じている方は、一人で抱え込まず、専門機関に相談することをお勧めします。
参考文献
- 厚生労働省「障害者雇用対策」 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/shougaishakoyou/index.html
- 文部科学省「特別支援教育について」 https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/main.htm
- 国立障害者リハビリテーションセンター発達障害情報・支援センター http://www.rehab.go.jp/ddis/
- 独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構「障害者の雇用支援」 https://www.jeed.go.jp/disability/
- 日本発達障害ネットワーク(JDDnet) https://jddnet.jp/
- 厚生労働省「知的障害児(者)基礎調査」 https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/101-1.html
- 独立行政法人国立特別支援教育総合研究所 https://www.nise.go.jp/nc/
監修者医師
高桑 康太 医師
略歴
- 2009年 東京大学医学部医学科卒業
- 2009年 東京逓信病院勤務
- 2012年 東京警察病院勤務
- 2012年 東京大学医学部附属病院勤務
- 2019年 当院治療責任者就任
佐藤 昌樹 医師
保有資格
日本整形外科学会整形外科専門医
略歴
- 2010年 筑波大学医学専門学群医学類卒業
- 2012年 東京大学医学部付属病院勤務
- 2012年 東京逓信病院勤務
- 2013年 独立行政法人労働者健康安全機構 横浜労災病院勤務
- 2015年 国立研究開発法人 国立国際医療研究センター病院勤務を経て当院勤務